出土文献与古文字研究学术论坛

 找回密码
 立即注册
搜索
查看: 6205|回复: 1

网站介绍:日本战国楚简研究会

[复制链接]
发表于 2009-3-4 21:19 | 显示全部楼层 |阅读模式

 

http://www.let.osaka-u.ac.jp/chutetsu/sokankenkyukai/

戦国楚簡研究会

 戦国楚簡研究会は、中国の「諸子百家」の時代の新資料を解読し、中国古代思想研究を進展させようとする研究会です。
 現在、主な研究対象としているのは、郭店楚墓竹簡(かくてんそぼちくかん、略称「郭店楚簡(かくてんそかん)」)および上海博物館蔵戦国楚竹書(しゃんはいはくぶつかんぞうせんごくそちくしょ、略称「上博楚簡(しゃんはくそかん)」です。これらの竹簡の出土地が戦国時代の楚の領域に属することから「楚簡(そかん)」と呼ばれています。

新着情報

<DIV class=f10pt>

2007.12
「西安・上海学術調査報告」を、『戦国楚簡研究2007』(『中国研究集刊』別冊特集号)に掲載。

2007.8~9
2007年8月27日~9月2日、中国陝西省西安・宝鶏、および上海において学術調査。

詳細はこちら→西安・上海 学術調査

2007.5
2007年5月26日、湯浅邦弘が「儒家哲學的典範重構與經典詮釋」國際學術研討會(台湾・東呉大学)で研究発表。翌5月27日、戰國楚簡文哲研讀會(台湾・政治大学)で講演。

詳細は、こちら→国際学術交流

2006.12
新出楚簡国際学術研討会参加記」ならびに「中国湖南省学術調査報告」を、『戦国楚簡研究2006』(『中国研究集刊』別冊特集号)に掲載。

2006.11
2006年11月8日~10日、「中国簡帛学国際論壇2006」(武漢大学)に浅野裕一が出席、研究発表。詳細は、こちら

2006.10
2006年10月27日~31日、台湾の国際学会、研究会に浅野裕一が出席。研究発表およびゲストスピーカーとして講演を行った。詳細は、こちら

2006.9
2006年9月2日~97日、中国湖南省長沙、および上海において学術調査。詳細はこちら

2006.6
『戰國楚簡與秦簡之思想史研究』(湯浅邦弘著、佐藤將之監訳、台湾・万巻楼、全276頁)刊行。

2006.6
2006年6月26日~28日、国際学会「新出楚簡国際学術研討会」(中国湖北省・武漢大学)に浅野裕一・湯浅邦弘・福田哲之・竹田健二が出席、研究発表。
詳細はこちら

新出土資料の意義

 郭店楚簡は、1993年に湖北省(こほくしょう)荊門市(けいもんし)郭店村(かくてんそん)で発見され、1998年にその全容が『郭店楚墓竹簡』(文物出版社)として公開されました。また、上博楚簡は、1994年、上海博物館が香港で購入した戦国時代の楚簡で、現在『上海博物館蔵戦国楚竹書』(上海古籍出版社)として公開が進められています。
 これらの新出土資料は、戦国時代の古文字で記されており、そこには、『周易』『詩経』『礼記』『老子』など伝世の主要な古典と密接な関係を持つ諸文献の他、儒家・道家・兵家系などの知られざる思想文献が大量に含まれていました。これらの解読が進めば、中国古代思想史研究にとっては無論のこと、東洋史学・古文字学・中国文学など周辺領域の研究にとっても、画期的な状況をもたらすこととなるでしょう。

 

 楼主| 发表于 2009-3-4 21:21 | 显示全部楼层

这网站里面的“楚简文字解读实习”部分使用的样式看着既方便又舒服

 

楚簡文字解読実習

楚簡解読の実例について紹介するページです。
  (1)『魯穆公問子思』
  (2)人名と主要ターム

(1)『魯穆公問子思』

郭店楚墓竹簡の中で、最も短編でまとまりのある『魯穆公問子思』を解読してみましょう。全体の釈文・書き下し文・現代語訳に続き、竹簡の写真と釈文とを併記してみます。

 『魯穆公問子思』の釈文・現代語訳・書き下し文・注は、湯浅邦弘「郭店楚簡『魯穆公問子思』釈文」[『戦国楚系文字資料の研究』所収]による。部分的に竹田健二が改めた箇所があるが、煩雑を避け注記を省いた。また、写真は文物出版社『郭店楚墓竹簡』による。


【釈文】

01魯穆公問於子思曰、「何如而可謂忠臣」。子思曰、「恆稱02其君之惡者、可謂忠臣矣」。公不悦、揖而退之。成孫弋見、03公曰、「嚮者吾問忠臣於子思、子思曰、『恆稱其君之惡者可謂忠04臣矣』。寡人惑焉、而未之得也」。成孫弋曰、「噫、善哉、言乎。05夫爲其君之故殺其身者、嘗有之矣。恆稱其君之惡者06未之有也。夫爲其[君]之故殺其身者、交禄爵者也。恆07[稱其君]之惡[者、遠]禄爵者[也。爲]義而遠禄爵、非08子思、吾惡聞之矣」。

【書き下し文】

 魯穆公 子思に問いて曰く、「何如なれば忠臣と謂うべきか」と。子思曰く、「恒に其の君の悪を称する者、忠臣と謂うべし」と。公悦ばず、揖して之を退く。成孫弋見ゆ。公曰く、「嚮者に吾れ忠臣を子思に問う。子思曰く、『恒に其の君の悪を称する者、忠臣と謂うべし』と。寡人惑いて、未だ之を得ざるなり」と。成孫弋曰く、「噫、善きかな、言たるや。夫れ其の君の故の為に其の身を殺す者、嘗て之有り。恒に其の君の悪を称する者、未だ之有らざるなり。夫れ其の[君]の故の為に其の身を殺す者は、禄爵と交わる者なり。恒に[其の君]の悪を[称する][者は]、禄爵を[遠ざくる]者なり。義を[為]して禄爵を遠ざくるは、子思に非ずして、吾れ悪んぞ之を聞かん」と。

【現代語訳】

 魯の穆公が子思に、「どのようであれば忠臣といえるだろうか」と問うた。子思は、「常にその君の悪い点を指摘する者こそ忠臣と言えます」と答えた。穆公はその答えを喜ばず、おじぎをして子思を退出させた。成孫弋が穆公に謁見した。穆公は「さきほど忠臣について子思に問うたところ、子思は『常にその君の悪い点を指摘する者こそ、忠臣と言えます』と答えた。私は、その答えを意外に思い釈然としない」と言った。成孫弋は、「ああなんと素晴らしい言葉でしょうか。そもそもお仕えしている君のために我が身を殺す者、というのは聞いたことがありますが、(子思の言うように)常にその君の悪い点を指摘する者、というのはおりません。お仕えしている君のために我が身を殺す者、というのは俸禄や爵位と交わる者。常にその君の悪い点を指摘する者、というのは俸禄や爵位を我が身から遠ざける者と言えます。正義を実現するために俸禄や爵位を遠ざけるということは、子思以外の誰にできましょうか」。

【注】

  • 魯穆公…魯国の君主穆公(在位前四〇九~前三七七年)。
  • 子思…錢穆『先秦諸子繋年』によれば、生卒年は前四八三~前四〇二。孔子の孫で、鯉の子。子思は字。曾子に学んだ。『中庸』は、子思学派の人々によって編まれたという。『漢書』芸文志に、『子思』二十三篇を著録。現存『礼記』中の中庸・表記・坊記等は子思の著作と伝えられる。魯の穆公に仕える。
  • 成孫弋…未詳。
     

您需要登录后才可以回帖 登录 | 立即注册

本版积分规则

小黑屋|手机版|Archiver|复旦大学出土文献与古文字研究中心网站

GMT+8, 2024-11-23 17:13 , Processed in 1.052324 second(s), 15 queries .

Powered by Discuz! X3.4

Copyright © 2001-2021, Tencent Cloud.